玄関の外は永遠(2017/12/29)
深夜、悪寒で起きてしまった。
布団にくるまっているのに寒い。体中が痛い。
完全に風邪に落ちてしまったようだ。
日中にTwitterでは友人が病院行けと言ってくれたり、LINEでは差し入れを申し出てくれる着信が届く。
ありがたい話をすべて断って、わたしはとにかく家の床でダラダラしていた。
昼過ぎ、コンビニに出るために、パジャマの上からロングコートを羽織り玄関から外に出た。
玄関から外にでると、世界中がつながっていた。
そんな風に細胞が感じ取ったという話だ。
家の中の空気と違い、玄関から外の気配は奥行きがあって地球は丸いんだなと知らしめる。
空は限りなくつながっているように、営みや気配がずっと続いていて不覚にも永遠を感じてしまった。
なんだそれは、どんな感傷なのだろうと自分でも疑問に思っている。
永遠にここに居たいようなそんな気持ち。
西荻窪の気配はいつでも和やかで遊びがあって文化的だ。美味しい出汁の匂いもする。
しかし寒い。いつまでも外にはいられない。
これまたライフワークのポケモンを起動して、ポケストップを気にしながらコンビニにて納豆とボックスティッシュを購入する。
この界隈のコンビニ店員は店の文句を店員同士で文句を言いながら、特別良いわけではない愛想で、けれど客の対応をおざなりにすることなく仕事する。
わたしは自分の家がすきだ。
自分の布団がすきだ。
だけど晴れた日の中央線沿線もすきだ。
冬の晴天はどこか人々の「諦め」にも似たような、スコンと抜けたところがある。
親しみのある。人間らしい気配。
もうすぐ年が明ける。
人生は連続(2017/1/28)
喉が「和室の壁みたいだな」と頭の片隅で考えている。
なんだっけ名前、名前があった。土。いやちがう、砂。砂壁。すなかべ?
それから体が熱い。
特に頭が熱くて重い。
なんだっけこの感じ、知ってるこの感じ。
風邪。
あぁ、風邪だ。風邪引いたのか。
風邪ならこのまま眠り続けたほうがいいのではないか。
否、お日様が昇ったら目を覚ましたほうが、人間には良いはずだ。
いやいや、起きて何をする。どうせろくでもない日常が続くだけ。
何をするでもないのだから起きる必要はないのでは。
カーテンの隙間からは朝陽と言うよりは昼陽というのか、高い位置からの陽光が漏れ差している。
わたしは目下睡眠中だ。
睡眠中だと言うのに忙しく頭の中はフル回転している。
陽光を足元に感じながらベッドの上で起きるか起きないかをレム睡眠のさなか、脳は激しく討論を重ねている。
さしずめ朝まで脳会議。(チャーラーチャッチャラッチャー。どうも、田原総一朗です。)
身体中が察知したのは、どうも風邪を引いたらしいということだ。
あまりも体中が発しているご意見がうるさくて、ついに退席していた意識も目を覚ました。
「いつまでもベッドで寝ていてはだめだな」
さすがに自意識が大きく動き、まぶたを持ち上げ、そして体を起こした。
多分だが自意識は、スマートフォンのゲームアプリ、『どうぶつの森』をやらなければという強迫観念で起きたようだ。
窓に目をやると、本日も明るく気持ちのいい光が入ってきている。
さて、今日は何をしようか。
この瞬間だけは無敵だ。
どんなことでもできる気がする刹那。
しかし次の瞬間いつも悩ましい問題が起こる。
さて、どの段階で着替えるべきか。着替えるは面倒くさい。
シャワーは毎日浴びるべきか。お風呂場は寒いので面倒くさい。
朝ごはんどうするか。作るのや洗うのは面倒くさい。
掃除に洗濯、したいけど面倒くさい、やりたくない、やらないとダメな奴だから、やらなくては、面倒くさい、と、考える自分が情けない。
とりあえずベッドからは抜け出して、床に敷かれているマットに座ろう。
今年の年末は特に年末感が感じられない。
年が明ける準備は何ら出来ていない。
けれど明けてほしいとは思っている。
そういえば今日は今年最後の燃えるゴミの日だから昨日の深夜にしっかり出してきた。
おかげでやるべきことはやった感は、ある。
いろいろな問題は残っているけれど、今年出すべき燃えるゴミは出し終えた。
そんな気持ちにさせてもらえてゴミの日に感謝しなければいけない。
最近では、あんなに心の頼りにしていた占いも、興味が醒めてしまった。
『今週は吉報が舞いこむでしょう』
『今週は忙しくなりそうだから、意識的に息抜きしましょう』
どんな予報があっても、頑なにわたしの日々は凪だ。
悪いことではないけれど、占いが当たっていないということは間違いない。
ほぼ仕事をしてない、穏やかで貧しい生活。
結局自分の人生は自分で作らないといけないということである。
困ってしまう。
動物たちとまったりゆったりした生活を送るゲーム『どうぶつの森』をはじめて1ヶ月ほど経ち、現在レベルは55。
平均的に世の人々がどれくらいなのかは知らないが、わたしのレベルを告げると相手はだいたい大きな声で驚くのだ。
床に座ったまま、ブルーライトのことをぼんやり気にしながら、魚を釣るタイミングでスマホ画面を指で叩く。
このゲームはわたしにとってゆるくない。
お部屋のインテリアに凝っている人、お洋服に気をつけている人など人によっていろんなたのしみ方があるようだ。
わたしはといえば動物のお願いをひたすら聞いてまわり、必要なものを懸命に仕入れてまわり、感謝されてまわること。
そうやってレベルを上げていくこと。
全くゆるくない楽しみ方だなあと、ごろ寝の体制になりながらエアコンの効いた部屋でスマホ画面と格闘している。
さて、今日は何を食べようか。
起きるのが遅く、既に正午近くなってしまった。
お昼の情報番組『バイキング』にチャンネルを合わせながら、夕飯のことを考える。
最近は大根ばかり。
大根を炒めてばかりだけれど、今日は何にしよう。
風邪に効く夕飯について考えながら、考える面倒臭さに憂う。
「人生は決断の連続だ」
ほんとうに、人生はしょうもない決断ばかり。
運勢の罠(プレッシャーの行方)
2017年の10月10日から全体の星回りが変わり、新しい星回りとなって新しい1年になるらしい。
我がみずがめ座は特に、仕事関係で大きく上向くらしい。
そんな予告が数か月前からどの占いでも告知されていたもんで、いざ当日になったら、プレッシャーでベッドから起き上がれなかったんだよ。
きょ、今日からなにか新しいことが始まる・・・・・・。
始まらなければならない。
始まらないのは相当に日頃の行いが悪いということ・・・・・・。
そう思うと、今日を始めることがとんでもないプレッシャーでしか無いのであった。
外はとんでもなく晴れて、気温もぐんぐん上がり、テンションを上げやがれと囃し立てる。
もしかしてっと、スマホから銀行残高を確認したが、とくに変化はありません。
さて、今日という日をどう過ごそうか。
運を上げるために外に出たほうが良さそうだけど、用事がないよ。
ギンギンに晴れた外は眩しすぎて、飛び出す度胸が生まれてこない。
どうしたら良いのしいたけ先生。
いつだって決断したくない。
自分の決断したくないよ~。
恨まないから、わたしの生活決めておくれよ。
昼過ぎにやっとベッドを抜け出し、もはや真夏並みの気温で、部屋の中でタンクトップになりぐだぐだだらだらとテレビを見ているのであった。
テレビはやさしい。
いつだってむかえてくれるんですもの。
なんだかんだ友達が相手してくれて有意義に過ごした気持ちではあるが、まだプレッシャーが終わったわけではないので安心できない。
プレッシャーイヤーは始まったばかりだ。
わたしにこの運勢を受け止めることができるのであろうか。
というか、生活できる経済状況に持っていくことはできるのであろうか。
生きるとお金(お湯を沸かそうにも)
初めてお給料を前借りした。
おかげで各所支払いができる。
引越し前の区から届いた請求はどこまで払うべきなんだろう??
しかしながら、口座にお金があるとかなり気持ちが楽になった。
長めの散歩したらどこかで一杯お茶ができるかもしれないし、
仕事に疲れたときに食べる甘いものを買うことに罪悪感がすこし薄れる。
ユニクロで1000円のトップスを1枚買い入れて、今シーズンももう少し世間に参加している気分になれるかも。
いま、ほんとうにお金なし(お金持ちの反語)なのでお金を使わないくふうをしているのだが、
素敵なお店を見つけても入れないと決まっている散歩はすこし面白みが欠ける。
気分転換の100円のお菓子も、余分な買い物は罪悪感が出る。
洋服を買うということは特に一番後回しになるのだけど
気に入っている服を着ることは自分らしくいられるものなので、
自信のある服を着れていないと胸を張れないものなのです。
服で自信が増えたり減ったりするなんて、なんて脆弱な自分らしさだろう。
お金に困ろうが、お金持ちになろうが、自分が気に入る自分でいたいと思っている。
しかし常に「わたしはじぶんのきにいるじぶんでいるのだろうか」と向き合い続けているのは窮屈なひとのようである。
やはし俯瞰と主観がだいじなのであろう。
難しくなってきた。
長めの散歩というフレーズで、「長い散歩」という映画を思い出した。
おじさんと羽の生えた少女の映画だ。
そういう素敵な映画を見るタイプだということをほのめかしたいだけの3行だ。
さきほど上京してから12,3年一緒だった“やかん“が朽ちた。
口先がボロっと。
ユニクロではやかんは売っているだろうか。
蓋を開けたら(人生旨くない)
完敗である。
完全なる失敗ということである。
3合炊いた混ぜ込みごはんが、まるごと大失敗である。
かなしい。
"まつたけごはん"である。
同じメーカーの"栗ごはん"はうまく行ったのに!
なんでなの!
お友達があそびにきてくれたから
いつもよりおかずは多めに"豚としめじの生姜炒め"と人参をごま油で炒めたおかず。
あとみそしる。
この3つは史上、稀に見るほどおいしくできたのによ。
友達が、かぼちゃのサラダとチーズの入った餃子(開けたらラビオリだった)を買ってきてくれたから楽しい食卓のはずなのに。
なんで。
なんでまつたけごはんが炊けていないの。
ベチョベチョの芯カチカチ。
お釜を開けたら「あらぁ~☆」ってなるはずだったのに。
「やっぱり旬のものっておいしいね♪」て、
「レトルトでも充分美味しいね!」て
言うはずでございましたのに。
起こると口調が荒くなるのを無理に止めてみました。
なかなかうまくいかない。
この大殺界最後の年をどう過ごすのか。
現在の月収6万円。
それに見合うだけの仕事しかしておりません。
家賃払ったら赤字です。
そんなことよりまつたけごはん。
うまくいかない。
アイドルのあいしかた(休場もファンタジー)
アイドルが売っているのは、夢、じゃなくて、ファンタジー、だと思っています。
どちらも似たような言葉なのでどっちでもいーっちゃいーんですけど(笑)。
でもわたし自身の中では「夢」という存在しなさそうなものより、
ストーリーとして各々の胸の中に存在する「ファンタジー」である、
という付き合い方だと思っているのです。
ファンのたのしみ
稀勢の里関が休場したという話題を取り上げているワイドショーを見ました。
この話題をワイドショーでどう取りあげるかというと、「途中休場の可否について」となるようです。
わたし自身は相撲については、
明るく盛り上がれる話題があることにとてもいいことだな~と思っているくらいです。
けれど注目を浴びる横綱が2場所連続休場というのはいろいろ意見が飛びかう事態だそうだそうで、
一流ってたいへんだな~。
そのくらいの認識のわたしがなぜこんな話題をするかといいますと、番組内でのこの休場を巡ってのファンの声というまとめVTRのなかで、
「今から休場だなんてチケット代返してほしい!」
という文言があり、
単にムカついたからです。
・・・なんでそんなこと言うんだよ~~。
稀勢の里関のドラマティックな2場所優勝で、ふだん興味をもってなかった層もファンを名乗り始め、競技が盛りあがっていくのはとても素敵なことです。
にわかファン肯定派です。
ただ、ライトファンが増えると批判もかんたんにされがち。
わかっているけど、
やっぱり、やっぱり、
そういうこと言うなよ~。
他にも素晴らしい力士がいるだろ!とか、
ノーマークの力士がすごい取り組みするかもしれないじゃん!とか、
はたまた、そういう意見も横綱(プロ)となったら受け止めなければならない、とか
いろいろあるんですけど、
アイドルやタレントのファンになって誰かを応援するというということが好きな立場から言わせてもらうと、
「休場という出場をしているじゃん!」
という気持ちなのよ。。。
ストーリーからのファンタジー
日本人独特の楽しみ方なのかなぁ、ストーリーごと愛するって。
お目当て(推し)のいない今日の取り組みを見ながら、
「今頃出場できなくて悔しがっているのかなぁ」とか
「この力士と戦っていたらどんな取り組みになっただろう」とか思いを巡らせたり、
はたまた「今日はどんなご飯を食べてるのかなぁ・・・」と思ってみたり。
見られるはずだった推しが見れなくなったら、そりゃあ残念だけど、
推しが愛してるものはどんなもんなのか(この場合は相撲)を肌で感じて追体験したり、
いろんなたのしみ方があると思いません?そーでしょ?ちがう!?
そーやっていくと、「ファン」と一括りにしても、みんな千差万別の愛し方をしていることがわかります。
みんなそれぞれがちがうたのしみ方で胸の中で遊ぶのです。
その中に「自分が落ち込んでいた時期に元気をもらった」等の別のストーリーが混ざり込み
人それぞれのファンタジーが作られて、
そのファンタジーを日々つくっては食べ、つくっては食べして満たされる。
そんなひとときの幸せをありがとう!と推しへの感謝を日々しつつ、
「もしもその感謝を直接言える時が来たら」という新たな妄想をつくっては食べ満たされる。
その繰り返し。
広い意味での「アイドル」のたのしみ方ってそういうものだと思うです。
もちろん興行を打った人は、その開いた穴の分、もっと面白くするというお仕事が必要になったりしますがそれまた別のお話で。
あと、これは意見が割れるかと思いますが、
わたしは「推しが裏でどういう人間でどういうことをしていてもかまわない」
と思っているタイプです。
こちらとしては、その人の人格までこちらの都合が良いぐあいに妄想しているので、
何かの拍子にちがう顔を見せられたらショックですけど、
それもまぁこちらの勝手なイメージに当てはめているだけだ、という認識は忘れないようにしています。
ファンのたしなみ
人を愛する線引ってむずかしいんだけど、
自分の愛し方まで推しに背負わすファンにはなりたくないよ~。
じぶんで選択して愛しているんだから相手にそのお返しを強要するファンにはなりたくないし、そういうファンは少なくあって欲しいと願います。
だいたい・・・稀勢関は引退したわけじゃないんだから・・・いいじゃんか!!!
という、SMAPオタクの叫び・・・(笑)!
ダラダラしましょう心から(ラッパーの国語力リスペクト)
いちども外に出なかった。
本日、コンビニすら行かず。
おうちがすきじゃ。
テレビがすきじゃ。
晴れた昼間に、録画したバラエティか推理ドラマ見てウトウトするのがこの世でいちばん好きなことです。
いちばんすきなことはよろこんでやろう!
明日もあさってもおうちに居たい。
なんにもしないでおうちで夢を見ていたい。
満島ひかりみたいになってGINZAに載るとか~
3万くらいする美顔ローラーを気軽に買っている自分とか~
ナカイの窓で中居くんの隣りに座って、嫌がられてるとか~
おゆうはんにお浸しと揚げ物と煮物とお味噌汁と納豆ご飯を用意するとか~
そういう夢をつらつらと思い描いては
ベッドにくるまってヘラヘラしていたいんだよ。
もちろん冷房が効いていて、ふんわり毛布にくるまって、
ポテトチップス食べて、なんか美味しいシュワッとしたジュース。
ときどきお友達が変なLINEくれて、
とぼけた話しして、またごはん食べよう!とか言って。
そんなだらしない欲望を全肯定するじんせいでありたい。
他人の欲望を見下さない女のひとでありたいのよ。
一人っ子だからでしょうか、わたしと言うものは
徹子の部屋に出てるという設定でひとりで2時間位しゃべってたりすることがあるのです。
この話は外ですると驚かれはしますが5人に1人位は「わかる~」という人がいるものです。
みんな妄想している。
妄想をそうとうしてる。
妄想と闘争してる。
妄想が高騰して、わたしはなにいってんの。
ラッパーの人ってすごいなぁ。
社会に出なさいって、誰かに怒られるかしら。
みんな、マイファンタジーの外をどうやって歩いているのかしら。
おうちには夢が詰まっています。
高級なレストランでお食事するより、
1流のミュージシャンのライブを見に行くより、
もしも願いが叶うなら、一生お家で夢見ていたいのさ。
お家でダラダラしていると、罪悪感を持ってしまうタイプの方が一定数いるとおもいます。
かくいうわたしも、そうなんです。ドキドキしながらダラダラすること多々。
でも~、それがすきならいいじゃん。
好きな仕事に一生懸命打ち込むことは善で、好きなダラダラに一生懸命打ち込むのは悪だって誰が決めたの。
ひとに嫌われるのが怖くて好きなことを引っ込めるのもバカみたい。
どちらかと言うと、わたしは「身を削った何かの対価でなければ幸せを受け取ってはいけない」という思い込みが強く残るタイプなのですが、
もっと楽にFUNを受け取る練習をしています。
だからいまはヒヤヒヤしながらダラダラしてます。
おうちっていいよね。