どうやって跳ぶの!

30を過ぎてるし無職だしどうすっかな

今日のめちゃイケがなんだかすごかったんだ。(2018/1/2)

今日のめちゃイケがすごかった。

なんと3時間半も見ていたらしい。

1時間番組のような体感時間だった。あっという間。

何の準備のない中居正広氏をナインティナインが突然その場から連れ出し、連れ回して無理やり日本一周させるという人気シリーズの最終章。

このオンエアをものすごく楽しみにしていたのだけど、あまりの体調の悪さに今日はおあずけで眠りにつかないといけないかもしれない。

そう思って番組冒頭だけ確認しようとおもったら、そのままエンディングまで見入っていた。

気がつけば体調も良い。

体調の悪さがテレビの幸福感に負けてしまっている。

 

番組の冒頭でツカまれてしまったところで、バラエティの命綱は編集なのだなぁとつくづく思った。

企画、キャスティング、演出、ナレーション、音楽、テロップなどなどもちろんたくさんの要素が揃わないといけないが、テレビに釘付けにできるかどうかは編集にかかっているのだなぁなんてひとりごちていた。

そういえば、中学生の頃のめちゃイケの画面は新鮮でテロップの出し方に夢中になっていたものだ。

番組中に企画説明をするカットで、RPGのステータス画面みたいにタレントの顔のアップの他に画面を分割して、企画の説明や企画の経過が表示されるレイアウトは誰の発明なのだろう。

そしてナレーションの木村匡也さんなんて、ナレーションというか本当にめちゃイケ活動弁士だし。

絶え間なく画面がが変わって、展開も変わって、虚実入り混じりながら疾走していく番組にワクワクしたんだ。

そんなテレビが好きでお笑いが好きでSMAPが好きなわたしは、今回の企画が日本一周シリーズの中でもかなり設定が大アマだったので心配になったりもした。

休憩も着替えもなく振り回された中居くんがやっとテンションが上ってきて、美味しい現地の食事を口に入れようとした瞬間に「ピーーー!!!」と矢部さんに笛を吹かれ、「時間がない」という謎の理由で一口も食べさせてもらえない、というお馴染みのくだりが今回は「ファイナルだから」と無くなり、中居くんが美味しそうに食事をしている姿は、ファンにしてみればかわいくて嬉しい限りなのだけど、ファンではないお笑い好きは許してくれるだろうか、と心配になった。

袂を分かった香取稲垣草彅についてはあちこち腫れ物を触るようなテレビの扱いの中で、「72時間ホンネテレビ」に引っ掛けて「72時間ホンネ旅」というネーミングはめちゃイケらしくて愛おしい。

他のテレビが新しい地図を冷遇しているからこそ、笑えるという風刺も少し。

72時間=2泊3日という体での企画だが、あちこちでのTwitterでのロケ目撃情報を集めれば去年の12月ころからチョコチョコとロケしていることは間違いがなく、それもこれもこの愛おしいネーミングを守るため、まるで72時間ぶっ通しでロケしているように編集されているわけです。

そう、わたしたちはこういう虚実入り混じったバラエティーで腹を抱えて笑ってはワクワクしていたんだ。

中居くんのやりたいことを消化していくというプログラムで進行する旅は、思い出の地を訪れたり懐かしいエピソードを話したりと最終回に向けて郷愁を呼ぶような演出が、今までをよく知っているファンにはたまらないわけだが、やっぱり逆に思い入れがない視聴者にどう映っているんだろうかとときどき心配になる。

わからんやつは見なくてもいいと切り捨てたくはない。

わたしの周りでもテレビの話が通じない友人は増えた。

嫌ってる人に好きになってほしいとまでは言わないが、なんとなく興味がある人を温かくむかえてあげられるメディアであってほしい。

ときどきそんなことを頭の余白で考えながら、番組はエンディングに向かっていく。

めちゃイケレギュラーメンバー全員を集めてのエンディング。

テレビの通例では、ここで中居くんとナイナイが20年の振り返りをしながら感謝を述べあい、感動で終わる。

中居ナイナイの三人の旅企画なのだから、三人で終わればいいものをレギュラーメンバー16人を集めたのは中居くんらしいなぁ。

そんな思いを持っていたら、岡村さんから中居くんへの感動の手紙の朗読、直後の落とし穴からそのまま中居くんがウォータースライダーでぶっ飛んでくという中居くんの亡くなったパパさんが好きなドッキリで泣き笑いしつつ、そのセットには3000万かかってるという暴露にスポンサーを思ってみたり、中居くんもサプライズで極楽山本さんを用意していたという種明かしの後ロケセットから出てくる山本さんに度肝を抜かれ、それって中居くんのSPならって言うことで山本さんも出られたってこと?、とか思ってたらなんと油谷さんの格好をしてるじゃん!と気がついて、また泣きそうになり、そうこうしてたらEDでジュディマリのBLUE TEARSが流れ出して。

中居ナイナイ日本一周旅という、めちゃイケ一企画の番組残り20分ぐらいで、叶わないかもしれないと思った願いが次々に消化されてわたしは大パニックに陥ってしまった。

まさに全部のせ状態。

どっからどこまでが演出でどっからがリアルなのか。

それを探しながら、でも番組の提示する笑いにはしっかり乗っかるっていう高等技術を使いながら私たちはバラエティーを楽しんでるんだなぁ。

この番組はフィクションです。

最後に登場するそのテロップも最高。

 

なぜだか見終わったら年末のような気分になった。

もうすぐ新しい年が明ける、その準備をしながら一晩限りの祭りを楽しんだかのような。

2018年は誰も悲しい思いをしない年でありますように。

そう、思う。

 

スーパーグッド(2018/1/1)

 

f:id:nananaoi:20180102003315j:plain


いつだって行き交う人の絶えない西荻窪の駅前から伸びる商店街も、あちこち照明が消えひっそりとしているのは今日ぐらいなものだ。

元日。

あけましておめでとうございます。

新年の空気を吸いに、外に出よう出ようとしていたら結局夕方になってしまうという、わたしだけは通常営業。

ポケゴーを起動しながらガランとした通りを歩いて抜けていく。

駅には初詣に行くのか初売りに行くのか、明るい声を立てるこども連れの姿や若いグループがほかほかした顔ですれ違う。

彼らのお陰でわたしにも正月がやってきたようだ。

 

コンビニで納豆とだしの素とカフェオレを買った。

まだ18時前だと言うのにコンビニ以外の店舗は真っ暗だ。

そう、お正月くらいはみんな休むべき。

コンビニで買い物をしておいてよく言うが、みんなで一斉にお休みする日はあったほうが絶対に良い。

駅前のドトールも、吉野家も閉まっているようだ。

ほんの少しの買い物を済ませ、来た道を戻る。

本当に人が少ない。

「お昼はグダグダとして街に繰り出すのはいつも夜だからわたしにとって夜が遊び場」だと、と大好きな永原真夏が言っていた言葉を思い出す。

ふと、音沙汰の「SUPER GOOD」を口ずさむ。

うんいい感じ。

ひっそりとした元日の東京の街を、風邪でしゃがれた声が、足跡をつける。

「一歩踏み出すたんび足がすくむ、ワクワクと同時にいつも何か捨ててるわ」

まるでビールでも飲んでいるかのように、コンビニのカフェオレを掲げる。

小さくステップを踏みながらフラフラと。

両側にひしめき合う店々が笑っている気がする。

アルコールが飲めないわたしはいつだって酔っぱらえる。

アルコールを飲まないと酔っ払わない人の気持ちはわからない。

こんなに静かなこの道はなかなかないぞ!そうだ!写真取らなきゃ。

左手にコンビニ袋、右手にカフェオレとスマホ

唇にはSUPER GOOD。

スマホを高く持ち上げて写真を取ろうとしたら、カフェオレが静かにわたしに向かってこぼれ出した。

すっかり暗くなった夜の気配には、白いニットにふりかかるカフェオレもよく見えないし生ぬるい甘い匂いがおかしくて。

 

クスクス。

うふふふ。

 

あぁ、あけましておめでとう。

今年もよろしくね。

年の明ける準備はできてない(2017/12/31-2018/1/1)

石川さゆりを震えながら見ている日曜日。

と言うより、結局紅白を楽しんでいる大晦日なのである。

RIZINも笑ってはいけないもチョコチョコまわしつつ、結局はベタに紅白が好きだ。

三浦大知くんのダンスや安室ちゃんの歌をしっかりと。

 

19時頃に自分で茹でたかけそばを食べたが、どうも不味かった。

数日前からの風邪のせいで味覚が埋もれてしまったのだ。

料理に愛は必要ないというタモリは言っていたが、今回は情熱が足りなかったと思う。

 

紅白のあとはテレ玉ももクロちゃんのカウントダウンに移動。

懐かしい「走れ!」とか「乙女戦争」なんて懐かしい楽曲で歌い踊る姿を眺めていたら、昔一緒にコンサートに行ったりした自殺した後輩を思い出したりなんかして。

あいつ、結局幸せな人生だったんじゃないかと思ってる。けど、それもあいつへのあてつけにそう思ってる気もするけど。

 

部屋の中はエアコンのお陰であたたかく、わたしの物で溢れている。

わたしの好きな番組だけ放送するテレビに、わたしの匂いのする布団。

大好きなSMAPくるりSEBASTIAN XのCD。

 

相変わらず年の明ける準備は出来ていない。

0時がまわったあとに窓をあけてみたらとんでもない冷たい世界だ。

「あけましておめでとう」とつぶやいてみたら、月に届く前に溶けてった。

 

新しい年にどれだけの人に感謝を伝えられるだろうか。

素直になれるだろうか。

プライドを捨てられるだろうか。

未熟な自分を愛せるだろうか。

人の幸せを喜べるだろうか。

 

溜まってるシンクの洗い物をさっさと片付けて、もう寝よう。

ヒットパレードが間もなく始まってしまう。

 

あけましておめでとうございます。

2018年もよろしくお願い致します。

玄関の外は永遠(2017/12/29)

深夜、悪寒で起きてしまった。

布団にくるまっているのに寒い。体中が痛い。

完全に風邪に落ちてしまったようだ。

日中にTwitterでは友人が病院行けと言ってくれたり、LINEでは差し入れを申し出てくれる着信が届く。

ありがたい話をすべて断って、わたしはとにかく家の床でダラダラしていた。

昼過ぎ、コンビニに出るために、パジャマの上からロングコートを羽織り玄関から外に出た。

玄関から外にでると、世界中がつながっていた。

そんな風に細胞が感じ取ったという話だ。

家の中の空気と違い、玄関から外の気配は奥行きがあって地球は丸いんだなと知らしめる。

空は限りなくつながっているように、営みや気配がずっと続いていて不覚にも永遠を感じてしまった。

なんだそれは、どんな感傷なのだろうと自分でも疑問に思っている。

永遠にここに居たいようなそんな気持ち。

西荻窪の気配はいつでも和やかで遊びがあって文化的だ。美味しい出汁の匂いもする。

しかし寒い。いつまでも外にはいられない。

これまたライフワークのポケモンを起動して、ポケストップを気にしながらコンビニにて納豆とボックスティッシュを購入する。

この界隈のコンビニ店員は店の文句を店員同士で文句を言いながら、特別良いわけではない愛想で、けれど客の対応をおざなりにすることなく仕事する。

 

わたしは自分の家がすきだ。

自分の布団がすきだ。

だけど晴れた日の中央線沿線もすきだ。

 

冬の晴天はどこか人々の「諦め」にも似たような、スコンと抜けたところがある。

親しみのある。人間らしい気配。

もうすぐ年が明ける。

 

人生は連続(2017/1/28)

 

 

喉が「和室の壁みたいだな」と頭の片隅で考えている。

なんだっけ名前、名前があった。土。いやちがう、砂。砂壁。すなかべ?

それから体が熱い。

特に頭が熱くて重い。

なんだっけこの感じ、知ってるこの感じ。

風邪。

あぁ、風邪だ。風邪引いたのか。

風邪ならこのまま眠り続けたほうがいいのではないか。

否、お日様が昇ったら目を覚ましたほうが、人間には良いはずだ。

いやいや、起きて何をする。どうせろくでもない日常が続くだけ。

何をするでもないのだから起きる必要はないのでは。

 

カーテンの隙間からは朝陽と言うよりは昼陽というのか、高い位置からの陽光が漏れ差している。

わたしは目下睡眠中だ。

睡眠中だと言うのに忙しく頭の中はフル回転している。

陽光を足元に感じながらベッドの上で起きるか起きないかをレム睡眠のさなか、脳は激しく討論を重ねている。

さしずめ朝まで脳会議。(チャーラーチャッチャラッチャー。どうも、田原総一朗です。)

身体中が察知したのは、どうも風邪を引いたらしいということだ。

あまりも体中が発しているご意見がうるさくて、ついに退席していた意識も目を覚ました。

「いつまでもベッドで寝ていてはだめだな」

さすがに自意識が大きく動き、まぶたを持ち上げ、そして体を起こした。

多分だが自意識は、スマートフォンのゲームアプリ、『どうぶつの森』をやらなければという強迫観念で起きたようだ。

窓に目をやると、本日も明るく気持ちのいい光が入ってきている。

さて、今日は何をしようか。

この瞬間だけは無敵だ。

どんなことでもできる気がする刹那。

しかし次の瞬間いつも悩ましい問題が起こる。

さて、どの段階で着替えるべきか。着替えるは面倒くさい。

シャワーは毎日浴びるべきか。お風呂場は寒いので面倒くさい。

朝ごはんどうするか。作るのや洗うのは面倒くさい。

掃除に洗濯、したいけど面倒くさい、やりたくない、やらないとダメな奴だから、やらなくては、面倒くさい、と、考える自分が情けない。

とりあえずベッドからは抜け出して、床に敷かれているマットに座ろう。

 

今年の年末は特に年末感が感じられない。

年が明ける準備は何ら出来ていない。

けれど明けてほしいとは思っている。

そういえば今日は今年最後の燃えるゴミの日だから昨日の深夜にしっかり出してきた。

おかげでやるべきことはやった感は、ある。

いろいろな問題は残っているけれど、今年出すべき燃えるゴミは出し終えた。

そんな気持ちにさせてもらえてゴミの日に感謝しなければいけない。

 

最近では、あんなに心の頼りにしていた占いも、興味が醒めてしまった。

『今週は吉報が舞いこむでしょう』

『今週は忙しくなりそうだから、意識的に息抜きしましょう』

どんな予報があっても、頑なにわたしの日々は凪だ。

悪いことではないけれど、占いが当たっていないということは間違いない。

ほぼ仕事をしてない、穏やかで貧しい生活。

結局自分の人生は自分で作らないといけないということである。

困ってしまう。

 

動物たちとまったりゆったりした生活を送るゲーム『どうぶつの森』をはじめて1ヶ月ほど経ち、現在レベルは55。

平均的に世の人々がどれくらいなのかは知らないが、わたしのレベルを告げると相手はだいたい大きな声で驚くのだ。

床に座ったまま、ブルーライトのことをぼんやり気にしながら、魚を釣るタイミングでスマホ画面を指で叩く。

このゲームはわたしにとってゆるくない。

お部屋のインテリアに凝っている人、お洋服に気をつけている人など人によっていろんなたのしみ方があるようだ。

わたしはといえば動物のお願いをひたすら聞いてまわり、必要なものを懸命に仕入れてまわり、感謝されてまわること。

そうやってレベルを上げていくこと。

全くゆるくない楽しみ方だなあと、ごろ寝の体制になりながらエアコンの効いた部屋でスマホ画面と格闘している。

 

さて、今日は何を食べようか。

起きるのが遅く、既に正午近くなってしまった。

お昼の情報番組『バイキング』にチャンネルを合わせながら、夕飯のことを考える。

最近は大根ばかり。

大根を炒めてばかりだけれど、今日は何にしよう。

風邪に効く夕飯について考えながら、考える面倒臭さに憂う。

 

「人生は決断の連続だ」

 

ほんとうに、人生はしょうもない決断ばかり。

 

 

 

運勢の罠(プレッシャーの行方)

2017年の10月10日から全体の星回りが変わり、新しい星回りとなって新しい1年になるらしい。

我がみずがめ座は特に、仕事関係で大きく上向くらしい。

そんな予告が数か月前からどの占いでも告知されていたもんで、いざ当日になったら、プレッシャーでベッドから起き上がれなかったんだよ。

きょ、今日からなにか新しいことが始まる・・・・・・。

始まらなければならない。

始まらないのは相当に日頃の行いが悪いということ・・・・・・。

そう思うと、今日を始めることがとんでもないプレッシャーでしか無いのであった。

外はとんでもなく晴れて、気温もぐんぐん上がり、テンションを上げやがれと囃し立てる。

もしかしてっと、スマホから銀行残高を確認したが、とくに変化はありません。

 

さて、今日という日をどう過ごそうか。

運を上げるために外に出たほうが良さそうだけど、用事がないよ。

ギンギンに晴れた外は眩しすぎて、飛び出す度胸が生まれてこない。

 

どうしたら良いのしいたけ先生。

 

いつだって決断したくない。

自分の決断したくないよ~。

恨まないから、わたしの生活決めておくれよ。

 

昼過ぎにやっとベッドを抜け出し、もはや真夏並みの気温で、部屋の中でタンクトップになりぐだぐだだらだらとテレビを見ているのであった。

テレビはやさしい。

いつだってむかえてくれるんですもの。

 

なんだかんだ友達が相手してくれて有意義に過ごした気持ちではあるが、まだプレッシャーが終わったわけではないので安心できない。

プレッシャーイヤーは始まったばかりだ。

わたしにこの運勢を受け止めることができるのであろうか。

というか、生活できる経済状況に持っていくことはできるのであろうか。

 

生きるとお金(お湯を沸かそうにも)

初めてお給料を前借りした。

おかげで各所支払いができる。

引越し前の区から届いた請求はどこまで払うべきなんだろう??

 

しかしながら、口座にお金があるとかなり気持ちが楽になった。

長めの散歩したらどこかで一杯お茶ができるかもしれないし、

仕事に疲れたときに食べる甘いものを買うことに罪悪感がすこし薄れる。

ユニクロで1000円のトップスを1枚買い入れて、今シーズンももう少し世間に参加している気分になれるかも。

 

いま、ほんとうにお金なし(お金持ちの反語)なのでお金を使わないくふうをしているのだが、

素敵なお店を見つけても入れないと決まっている散歩はすこし面白みが欠ける。

気分転換の100円のお菓子も、余分な買い物は罪悪感が出る。

洋服を買うということは特に一番後回しになるのだけど

気に入っている服を着ることは自分らしくいられるものなので、

自信のある服を着れていないと胸を張れないものなのです。

 

服で自信が増えたり減ったりするなんて、なんて脆弱な自分らしさだろう。

 

お金に困ろうが、お金持ちになろうが、自分が気に入る自分でいたいと思っている。

しかし常に「わたしはじぶんのきにいるじぶんでいるのだろうか」と向き合い続けているのは窮屈なひとのようである。

やはし俯瞰と主観がだいじなのであろう。

難しくなってきた。

 

長めの散歩というフレーズで、「長い散歩」という映画を思い出した。

おじさんと羽の生えた少女の映画だ。

そういう素敵な映画を見るタイプだということをほのめかしたいだけの3行だ。

 

さきほど上京してから12,3年一緒だった“やかん“が朽ちた。

口先がボロっと。

 

ユニクロではやかんは売っているだろうか。