無敵な赤子と親になれない大人(2018/1/8)
実家がやってきた。
年末年始は皆、親元に帰ったりしているようだが、わたしは金がないので帰れない。
適当に過ごしていたら、実家のほうがこちらにやってくるという電話があった。
甲斐甲斐しく面倒を見ている赤子を見せたいということだ。
わたしが中学生に上がった頃に両親が里親になった。
養子縁組をするのではなく、児童相談所から委託されとある期間を我が家でこどもが過ごすというタイプの里親だ。
1週間程度のこどももいれば、小学1年から18までウチで過ごしたこどももいる。
その18歳が卒業していったことで、去年の春先から里親はお休みすると聞いていた。
しかし昨夏、急遽生まれて2週間ほどの乳児の受け入れ先が必要となったことでなし崩しに里親を再開することになった。
赤ん坊に目がない両親には好都合だったのだ。
両親はアラ還となり体力的にもこどもの面倒は苦しくなった。
母は足と腕を痛め杖をつき、父はうつをやって仕事を休み休みだ。
しかし、老いてきたからこその赤子の存在は瑞々しく、活力を与えている。
父の方は大学生の頃、乳児院で保父さんのアルバイトをしていたほどだ。
小さければ小さいほどたまらないのである。
この赤子の母親は、産後の調子が悪く、この期間だけ我が家にこの子がいるとだけ聞いていた。
その後一度実母が引き取ったと落ち込んだ様子でわたしの父から聞いたときには、「ほんとうのお母さんのところにいけてよかったねぇ」とわたしは返事をした。
どこまでいっても他人の子供である。それを忘れてはいけない。
しかし数日後実母の「やっぱりお母さんやめる」というセリフとともにこの赤ちゃんが我が家に帰ってきたそうな。
このセリフにわたしは大笑いしてしまった。
やめたくなったときにやめられて、赤ちゃんも受け入れ先があってよかったね。
これがわたしの素直な本心だ。
ご時世的に大バッシングを受けそうな感想である。
わたしの両親は里親を始める前から、自宅にてベビーシッターなどをしていたこともあり、よそのこどもが常に家にいた環境だった。
そこでわたしがすくい取ったのは、「得意なひとがやればいいじゃん」というスタンスである。
共働きでこどもを見れない時間帯があるなら、こどもが好きで時間が空いている人のところに行けばいいじゃん。
子育てが苦手なら、子育てが好きな人に手伝ってもらえばいいじゃん。
今の時代、虐待の種類はネグレクト(放棄)が圧倒的に多いのですが、つまりまぁ、みなさん育て方がわからんのですよね。
学校で習うわけでもないし、テレビでやっているわけでもなくて出来るわけがないのです。
夜3時間おきにこどもが起きるって聞いてないし、なんで泣いているのかわからないし、だけどお店や電車でうるさくしてはいけないし。
現在両親が面倒見ている赤子の件については、一番どうにかしなければいけないのは「お母さんをやめた」女性の生きる環境だと思う。
40歳を過ぎての出産でうつ持ちのため、いい大人に生き方を矯正させるってのもなかなかできることではないと思うけれど。
この親子にとっての本来の幸せはやっぱり実母と実子が一緒に気持ちよく成長できることのはずだから、こどもの世話ばかりでなくうまく親になれない大人のフォローも社会がどうにかしていってあげなきゃいけないのだと思う。
現在、その親のフォローをする仕組みが無いからわたしにできることはないと思いつつも、そんなこと行政に任せなくてもわたしたち民間レベルの大人同士で支え合えたらいいのにね。とも思ったり。
とまぁ、あれこれ思いを巡らしつつも、両親はせっせと赤子の世話をしては幸せそうだ。
わたしが産む気配はなかなか無い。
わたしからしたら、自分の生活も全然ままなってないのでそれどころではないんだ。
と言い訳しつつ、わたし部屋にやってきたこの子を抱いていると満たされた気持ちになる。
あったかくて率直で、こちらの都合は関係ない赤ちゃん。
わたしもかつてこんなに無力で傲慢だった。
父も母も。
こどもは社会全体で育てるものと思ったけど、結局年齢には関係なく、他人同士も支え合わなければ、社会は成り立たないのだぞってことか。