どうやって跳ぶの!

30を過ぎてるし無職だしどうすっかな

蓋を開けたら(人生旨くない)

完敗である。

完全なる失敗ということである。

3合炊いた混ぜ込みごはんが、まるごと大失敗である。

かなしい。

"まつたけごはん"である。

同じメーカーの"栗ごはん"はうまく行ったのに!

なんでなの!

お友達があそびにきてくれたから

いつもよりおかずは多めに"豚としめじの生姜炒め"と人参をごま油で炒めたおかず。

あとみそしる。

この3つは史上、稀に見るほどおいしくできたのによ。

友達が、かぼちゃのサラダとチーズの入った餃子(開けたらラビオリだった)を買ってきてくれたから楽しい食卓のはずなのに。

なんで。

なんでまつたけごはんが炊けていないの。

ベチョベチョの芯カチカチ。

 

お釜を開けたら「あらぁ~☆」ってなるはずだったのに。

「やっぱり旬のものっておいしいね♪」て、

「レトルトでも充分美味しいね!」て

言うはずでございましたのに。

起こると口調が荒くなるのを無理に止めてみました。

 

なかなかうまくいかない。

この大殺界最後の年をどう過ごすのか。

 

現在の月収6万円。

それに見合うだけの仕事しかしておりません。

 

家賃払ったら赤字です。

 

そんなことよりまつたけごはん。

 

うまくいかない。

アイドルのあいしかた(休場もファンタジー)

アイドルが売っているのは、夢、じゃなくて、ファンタジー、だと思っています。

 

どちらも似たような言葉なのでどっちでもいーっちゃいーんですけど(笑)。

でもわたし自身の中では「夢」という存在しなさそうなものより、

トーリーとして各々の胸の中に存在する「ファンタジー」である、

という付き合い方だと思っているのです。

 

ファンのたのしみ

稀勢の里関が休場したという話題を取り上げているワイドショーを見ました。

この話題をワイドショーでどう取りあげるかというと、「途中休場の可否について」となるようです。

わたし自身は相撲については、

明るく盛り上がれる話題があることにとてもいいことだな~と思っているくらいです。

けれど注目を浴びる横綱が2場所連続休場というのはいろいろ意見が飛びかう事態だそうだそうで、

一流ってたいへんだな~。

 

そのくらいの認識のわたしがなぜこんな話題をするかといいますと、番組内でのこの休場を巡ってのファンの声というまとめVTRのなかで、

 

「今から休場だなんてチケット代返してほしい!」

 

という文言があり、

単にムカついたからです。

 

・・・なんでそんなこと言うんだよ~~。

 

稀勢の里関のドラマティックな2場所優勝で、ふだん興味をもってなかった層もファンを名乗り始め、競技が盛りあがっていくのはとても素敵なことです。

にわかファン肯定派です。

ただ、ライトファンが増えると批判もかんたんにされがち。

わかっているけど、

やっぱり、やっぱり、

 

そういうこと言うなよ~。

 

他にも素晴らしい力士がいるだろ!とか、

ノーマークの力士がすごい取り組みするかもしれないじゃん!とか、

はたまた、そういう意見も横綱(プロ)となったら受け止めなければならない、とか

いろいろあるんですけど、

 

アイドルやタレントのファンになって誰かを応援するというということが好きな立場から言わせてもらうと、

「休場という出場をしているじゃん!」

という気持ちなのよ。。。

 

トーリーからのファンタジー

日本人独特の楽しみ方なのかなぁ、ストーリーごと愛するって。

お目当て(推し)のいない今日の取り組みを見ながら、

「今頃出場できなくて悔しがっているのかなぁ」とか

「この力士と戦っていたらどんな取り組みになっただろう」とか思いを巡らせたり、

はたまた「今日はどんなご飯を食べてるのかなぁ・・・」と思ってみたり。

 

見られるはずだった推しが見れなくなったら、そりゃあ残念だけど、

推しが愛してるものはどんなもんなのか(この場合は相撲)を肌で感じて追体験したり、

いろんなたのしみ方があると思いません?そーでしょ?ちがう!?

 

そーやっていくと、「ファン」と一括りにしても、みんな千差万別の愛し方をしていることがわかります。

みんなそれぞれがちがうたのしみ方で胸の中で遊ぶのです。

 

それぞれの胸の中にちがうその推しのストーリーがあって、

その中に「自分が落ち込んでいた時期に元気をもらった」等の別のストーリーが混ざり込み

人それぞれのファンタジーが作られて、

そのファンタジーを日々つくっては食べ、つくっては食べして満たされる。

そんなひとときの幸せをありがとう!と推しへの感謝を日々しつつ、

「もしもその感謝を直接言える時が来たら」という新たな妄想をつくっては食べ満たされる。

その繰り返し。

 

広い意味での「アイドル」のたのしみ方ってそういうものだと思うです。

もちろん興行を打った人は、その開いた穴の分、もっと面白くするというお仕事が必要になったりしますがそれまた別のお話で。

 

あと、これは意見が割れるかと思いますが、

わたしは「推しが裏でどういう人間でどういうことをしていてもかまわない」

と思っているタイプです。

こちらとしては、その人の人格までこちらの都合が良いぐあいに妄想しているので、

何かの拍子にちがう顔を見せられたらショックですけど、

それもまぁこちらの勝手なイメージに当てはめているだけだ、という認識は忘れないようにしています。

 

ファンのたしなみ

人を愛する線引ってむずかしいんだけど、

自分の愛し方まで推しに背負わすファンにはなりたくないよ~。

じぶんで選択して愛しているんだから相手にそのお返しを強要するファンにはなりたくないし、そういうファンは少なくあって欲しいと願います。

 

だいたい・・・稀勢関は引退したわけじゃないんだから・・・いいじゃんか!!!

という、SMAPオタクの叫び・・・(笑)!

 

 

ダラダラしましょう心から(ラッパーの国語力リスペクト)

いちども外に出なかった。

本日、コンビニすら行かず。

おうちがすきじゃ。

テレビがすきじゃ。

 

晴れた昼間に、録画したバラエティか推理ドラマ見てウトウトするのがこの世でいちばん好きなことです。

いちばんすきなことはよろこんでやろう!

 

明日もあさってもおうちに居たい。

なんにもしないでおうちで夢を見ていたい。

 

満島ひかりみたいになってGINZAに載るとか~

3万くらいする美顔ローラーを気軽に買っている自分とか~

ナカイの窓で中居くんの隣りに座って、嫌がられてるとか~

おゆうはんにお浸しと揚げ物と煮物とお味噌汁と納豆ご飯を用意するとか~

 

そういう夢をつらつらと思い描いては

ベッドにくるまってヘラヘラしていたいんだよ。

もちろん冷房が効いていて、ふんわり毛布にくるまって、

ポテトチップス食べて、なんか美味しいシュワッとしたジュース。

 

ときどきお友達が変なLINEくれて、

とぼけた話しして、またごはん食べよう!とか言って。

 

そんなだらしない欲望を全肯定するじんせいでありたい。

他人の欲望を見下さない女のひとでありたいのよ。

 

一人っ子だからでしょうか、わたしと言うものは

徹子の部屋に出てるという設定でひとりで2時間位しゃべってたりすることがあるのです。

この話は外ですると驚かれはしますが5人に1人位は「わかる~」という人がいるものです。

 

みんな妄想している。

妄想をそうとうしてる。

妄想と闘争してる。

妄想が高騰して、わたしはなにいってんの。

ラッパーの人ってすごいなぁ。

 

社会に出なさいって、誰かに怒られるかしら。

みんな、マイファンタジーの外をどうやって歩いているのかしら。

おうちには夢が詰まっています。

高級なレストランでお食事するより、

1流のミュージシャンのライブを見に行くより、

もしも願いが叶うなら、一生お家で夢見ていたいのさ。

 

お家でダラダラしていると、罪悪感を持ってしまうタイプの方が一定数いるとおもいます。

かくいうわたしも、そうなんです。ドキドキしながらダラダラすること多々。

でも~、それがすきならいいじゃん。

好きな仕事に一生懸命打ち込むことは善で、好きなダラダラに一生懸命打ち込むのは悪だって誰が決めたの。

ひとに嫌われるのが怖くて好きなことを引っ込めるのもバカみたい。

どちらかと言うと、わたしは「身を削った何かの対価でなければ幸せを受け取ってはいけない」という思い込みが強く残るタイプなのですが、

もっと楽にFUNを受け取る練習をしています。

 

だからいまはヒヤヒヤしながらダラダラしてます。

おうちっていいよね。

 

 

 

 

仕事の出来は二の次、うつ病ものりこえたことだし(しいたけ占いでいきのびる)

日付が変わってしましました。

昨日の夜から向き合っているわたしの唯一社会とつながっている業務、

「毎週企画書4つ出す」

がなんとか本日もおわりがみえてきた~~。

みえたぞ~~!

 

今までのわたしなら、

「こんなにがんばったのに、内容がどうしようもない。生きる価値がない」

とか思うところだけれど、

これほど自己啓発本やらネットの「あなたは価値がある」系の心屋なんたら系の文章を読みまくったわたしはちがうのである。

「たしかに仕事の中身は先輩方に遠くおよばないけれど、とりあえずなんとか今日ものりこえたねわたしちゃん」

である。

実際、書き上げた企画書をじぶんで眺めても、しょうもないな~と思っちゃうし、どこをダメ出しされるかもだいたいわかっているもんだ。

とはいっても、代案は思いつかない=アイデアの限界であり、これ以上よくすることはわたしにはできないのだよ!!

わたしの引き出し経験能力不足ではあるが、今回もよく向き合いました!

 

わたしも現代人の例に漏れず、鬱になったことがある。

うまく歩くことができない程度にうつ病にかかった。

これはほんとうに大変だった。

とにかく周りの人に迷惑かけることが怖いし、普通の人と同じように働きたいのに体が動かないのである。

ふりむくとか起き上がるとか、そういう動作が当たり前の体の動きができなくなった。

鬱なわけだからもともと死にたいのだけど、「死にたい」のは病気のせいだっていう意識はあるから、それはそれで自分の問題として対応しつつ、それとは別に同僚たちには迷惑かけたくない。

のに、うまく体が動かない、って言うか歩けない。

そんなことしてたら、同僚に嫌われちゃう、きっと既に嫌われてる!とかってまた堕ちていくのくりかえし。

 

結局、周りがみんな素晴らしい人々で、よくわかった上でお休みをくれたり、夜だけの勤務にしてくれたおかげで少しづつ良くなった。

うつ病はとにかく朝が弱くてトイレにいくのも一苦労、夕方になるとかなり良くなるのに)

もちろん休んだのが良かったのもあるけれど、それより周りがわかってくれたというのがとても症状を軽くするきっかけとなったようでした。

うつ病の人にぜったいNGの「がんばれ」とかは誰も言わないでいてくれたし。。。

 

いままでもよく「がんばりすぎ」とか「考え過ぎ」など人から言われることがあるけれど、

自分の「普通」をやっているだけだからそんなこと難しいことを言われても、

加減がまったくわからない、というのが本音でしたね。

 

ところが、その塩梅を、わかりやす~く説明してくれた人・・・いやキノコがいました。

 

今流行の「しいたけ」先生です。

 

voguegirl.jp

 

たしか「よく肩の力を抜きなよと言われるけど、言われるほど頑張ってないんだけどなと不思議に思ってしまいます。」「あなたは自己犠牲の優先順位が高いのです。普通は最後の手段なはずなのに、あなたは最初だから」

みたいなことが書いてあり、「なるほど~、そう言われると思い当たるフシあるな」と腑に落ちました。

友人に見せたら大きく頷いていたので、なるほど説得力あるぞ、と、しいたけ先生の大ファンになってしまったものです。

どうやらわたしの「頑張る」は方向が間違っているようでした。

 

自分の実力以上の結果を出そうするのはいいのだけれど、

できない自分をやたらと攻撃してはいけないようだと、今はわかります。

「他の人はできるのになんてだめなんだわたしは」

は、一瞬にすることにしています。

受け流しです。

断捨離です。

 

そういうわけで、だめな企画書の諦め方でした。

ご清聴ありがとうございました。

 

 

 

 

お料理ビギナーがお料理するということ(腹が減っては某)

しっかりたべれば福!

言い換えれば、腹が減っては大凶ということ。

戦もできなければたのしいこともできない。

 

成人する前後くらいまでは食べることが大好きで、

お菓子でもごはんでも、とにかくたべるものがあると嬉しくてしょうがなかったのだけど

大人になり、だんだん食事に対する興味がなくなってきています。

おいしいもの食べるよりは家でゴロゴロしていたいくらい。

興味がないから、食べようと思わない。

食べようとしないから常にお腹は減っている。

常に減っているから減ってない状態との違いがわからない。

そしてよい食事はお金がかかる。

そうなのですよ~。おかしでお腹を満たすほうが安いのです。

 

そんな一人暮らしをしていると、からだはわるい。

特に夏は必ず夏バテをする。

一日中頭が朦朧として気持ちわるい。

 

そんなふうに体が悪くなると心が悪くなる。

余裕がなくなってずっとムカついたり落ち込んだり。

カラダとココロとゴハンはつながっているのだ!!

 

すこし前にこの街に引っ越してきて、キッチンが少し広くなった。

家を出てから14年、自然とじぶんでお料理をしてみる気になっています。

はっきり言って自炊は安く上がらない。

だから節約とかそういうことでなく、なんかこう、生活、生活してるぞ!ということのためにやっています。

 

じつは今日、午前中はなんだか全然からだが動かなくて目はさめているのに起き上がれなかった。

きのう食事を全然しなかったからだなと、よくわかった。

ここのところくよくよしていたからじぶんでご飯を作っていなかったのだけど、

ひさしぶりにスーパーに行って、

野菜を買って

買ったばかりのイモ天をかじりながらお家に帰って、

トマトときゅうりと豆苗と豚肉切って

なんやかんやして

食べた!

台所ではちょっとの調理だというのに汗だくになりながらの自炊。

 

「いただきます」

「ごちそうさま」

じぶんで作ったお料理はやっぱりじわじわと満たされる感じ。

生きたごはんを食べると元気が出るもんだ。

 

お料理初心者には、

電子レンジで済むレシピとか切って焼くだけレシピとか

ネットやお料理アプリで先人の知恵をたくさんお借りすれば

なんとか続けられるもんです。

(クラシルさんありがたや~)

 

冬、寒くなってきたときには果たして台所に立つのだろうか・・・。

乞うご期待ですよ。

 

ブログの読み方(今も過去も訂正不可)

 

今日の食事はトーストを1枚たべたきりだと気がついてしまった。

もうすぐ日付が変わってしまう。

いや、ポテトチップス1袋とシュークリームも一つたべた。以上。

 

こうやって夏バテしていくのであろうな・・・。

 

1日中ブログの書き方を検索しまくってグッタリ。

ブログで日記を書くのはおりこうではないと聞く。

理屈はわかるのだけど、じゃわたしゃ何すればいいの、何書けばいいの、それ楽しいの。

 

どこぞの馬の骨の日記なんてはやらないのはわかっているけど、他に書くこともないし・・・。

それにわたし自身が専門ブログより日記ブログを見るほうが好きだということが大きいのです。

世の中の人はどんなことに面白がって、どんなことに嫌悪しているのか。

みなさんがどんな文体でメロディーを奏でているのか耳をすませて、それをBGMのように感じるのがわたしの好きななブログサーフィンです。

みなさん文章かくのじょうずやな~~。

 

じぶんの現在の環境に不安はやっぱりあるので、「フリーランス」や「無職」といったキーワードにその打開策をさがしてしまうところはありますが、

もちろん答えはそんなとこになくて、でもその人はどんなふうに生活しているのか

世の中にあるひとつのこたえを見させていただくのはとてもおべんきょうになります。

本を読む場合も、圧倒的に小説が多いタイプ。

だから、詳細なせつめいよりも、せいかつの中でぼんやり思ったことを訥々語っているほうがすきなのでしょうね。

 

みなさんはなんでブログ書いてるのかな~。

みなさんはなんでブログ読んでるのかな~。

 

それはやっぱ、楽しいからって理由なんだろな~。

 

情報が飛び交う時代にリテラシーを意識しすぎて善と悪をきっちりわけなきゃいけない感じになるのは嫌だから、

もうちょっと、

正義はみじんも見せずにあっけらかんとしていたいものです。

 

まだまだ発信をすることにおくびょう風をふかしていますが、

「わたしはこの世の中での決定事項だ」

と、何かの自己啓発本で言っていたので

根拠のない自信にしっかりむねを張りたいとおもいます。

 

ところで、さっき歯磨きしてるときに鏡の向こうのわたしが着ているTシャツに、Mシールが貼ってあることに気が付きましたよ。

GUのMサイズと表記してあるシール。

コンビニ言った時、わたしはMですって宣言して歩いていたことになるな。はずかしいな。

しかしこれも訂正のきかない決定事項か・・・。

 

 

 

断捨離の本質とは(しっかりたべれば福)

私の場合は一週間。

あなたはどのくらいでしょう。

3日?

その日の内?

もしやその場で?だとしたらうらやましいなぁ~。

わたしは少なくとも一週間はグズグズします。

なにかあった場合、その場ですぐ切り替えられるタイプではない方。

そのかわり最近は何故か一週間経つと急に力が抜けていくのです。

 

「なんとかなるよ」と口にしつつ

「どうするの?どうするの?もう終わりだ」と心のなかで大戦争。

それでも、どんなに空っぽでも「なんとかなる」と口にしないともっと深みにハマりそうで、必死に前向きなことばを拾っては組み合わせて、心と反対のことばを口から出すのくりかえし。

 

しかしながら、この世紀末感はさすがに既視感があるんだな~。

なんだかんだ齢30も少し過ぎますとどんな修羅場も新鮮味がなくなってくるもんです。

そう、あわてなくなります。

 

あとはあんまり一人で考えすぎるもんじゃない、という過去に手に入れた教訓も生きてきます。

ガッツリ自分の枠の中ではまり込んだら、できるだけ人に会っていろんな話をするといいもんです。

だから他愛のないはなしができる友人は宝。さいきんは身に染みて感じます。

 

あーほんと、お金ない。

だけど、会社にがんじがらめになっている友人からは、わたしが羨ましく見えるようだし、角度によってほんと見え方が違うから、別の「眼」って本当に面白い。

 

ものづくりに没頭して個性至上主義だったあの頃、フリーターの自分にプライドを持っていたあの頃、就職して価値あるわたしを装っていたあの頃。

そしていま、最高に『無能な自分』とおつきあいをしています。

するとどうでしょう。

仕事も何もかも手放した今、不思議なことに外に対して余計なチカラの入らない取り組み方が出来ていることに気が付きました。

 

うまくやろうと思わない(そもそも能力がないのだから)、すごい人だと思われない(そもそもすごくないのだから)、知性的であろうとしない(そもそも無知なのだから)、

そんなふうにかなりフラットになってきました。

フラットな人に強いあこがれがあったのだけど、なるほど、こういうことか。

受け入れては手放しているのだな。

理屈は見えたぞ。

恒常的に受け入れと手放すを続けられるかといったら、それは修業が必要だけど。

 

なるほどな~なるほどな~。

断捨離の本質にわたしはたどり着いたんじゃない?

と思って軽く調べたら、まったくちがうようです。

インド人もびっくり。

 

「まぁ、死ぬわけじゃないし」にたどりつければこっちのもの。

 

あまり大騒ぎせず、楽しそうにくらしてみよう。

 

だれかおいしいステーキ食べさせてくれないかな~。

たのしくなれそうなんだけど。

あと来月の家賃も誰か払ってちょんまげ。